私は今までに、どれ位嘘をついてきたかわかるなら、それは多いのか、少ないのか、気になるところです。
なるべく人に誠実に、子どもに「嘘をつくな」と教えて恥ずかしくないよう暮らしてはいるつもりです。
気の小さい性格もあり、嘘をつくこと自体が怖くもあります。
しかし、思い出すのは気が小さいためについた昔の嘘です。
そんな、事実から逃げるほどの困難な状況でもなかったのに…。
高校時代、運動部ながら体育は苦手だった学生の頃、取り分け苦手な球技、バスケットボールの授業で起きた""行き違い""です。
その頃、体育は2クラス合同、男女別に行われ、数人ずつに分かれバスケットの基礎練習をしていました。
同グループには、部活の仲良しがおり、一緒の列で自分の順番を何となくおしゃべりしたり周りのプレイをボーと見たり…、何のことなく時間は過ぎます。
そして…私は緊張していました。
体育が嫌いでした。
苦手な球技の時間は本当にツマラナイ、さらに別クラスの苦手な女子も同じ場所にいるということで、体育は苦痛な時間になることが多かったのです。
若い、というか、繊細で自意識過剰な女子高生でした…。
バスケットゴールの前に順番待ちの集団を作りながら1人ずつドリブル、シュートをしていく、というような内容だったでしょうか。その辺りはうろ覚えなのですが…。
私は人の注目を受けるのが苦手でした。
学校、さらに体育というシチュエーションでは、それはもう、ちょっとした恐怖であるほどに。
今思うと、「自分よ、なぜそこまで」と苦笑いしてしまいますが。
そこでの人の流れ、番の周り方がまた、基本ボサッとした私には把握しきれておらず、自信のないままに人のプレイ見たり硬くなりながらシュートしたり、また並んで人の見たり…ただ、流れに乗って動くうちに授業終わりの鐘が鳴るのを待っているという不毛な時間です。
そんな中、訪れた魔の時でした。
私はもう、さっさと自分の順番を済ませたかった、空気のように思ってくださいと念じながら初老の男性体育教師の指示するドリブル&シュート作業を済ませ…。
のち所定の位置につき、さらに次の人と何かしらやり取りをする、というシステムだったのでしたか、その時「ちょっと待て」はかかったのです。
ビクリとする私、目線は下がちです。
自分が言われたと思いたくない…。
どうやら、自分の順番を飛ばしてしまったのではないか、と声をかけられたのです。
周りが小さく「あれれ、」とややザワめく空気、もう逃げたい気持ちでいっぱいです。
「え、私じゃないと思いますけど。」言い切りました。
よく考えて自分の非を改めるより、「この数人の集団の中でなんかしら、不具合が起きたんだな」という思考を自らに勧めたのです。
ちょうど私と隣り合っていた仲良しの友人が、「私やったのにー」といいながら、それでも渋々その番をこなしてくれます。
オジサン教師も苦笑い気味に「お前でないだろうけど、まあ」といいながらそれ以上は追求もなく、私はドキドキしながら傍観していました。
すでに「ズルいことした」自覚が生まれ罪悪感も感じています。
しかし、その場で「衆人環視の下手くそドリブルシュート」をするのを免れ、ホッとしていたのです。
でもきっと、いや確実に私の間違いです。
別の友人と「やっぱり私だったのでは」「そうなんじゃない?」というやり取りまでしたのを覚えています。
ふがいない私は、それでも「よくわかんなーい」空気で、今となっては曖昧な行き違い、もしくは私の勘違いで、わざとではないもん、という自分の気持ちまで作りました。
数秒間の煩悶をしながらやり過ごしたささいな出来事。
まさに、人としての弱さの表れ。
なにより自分のズルさに落ち込みました。
その後も、なるべく人に優しく、親切に、をモットーにしながら、しかし気弱でマヌケな失敗をゴマかすこともありつつ…自分の正直さって、欺瞞だなあ、と反省しつつ暮らしています。
我が子の前でも、ちゃんとした親みたいな顔で。
ただひたすら、嘘の記憶を忘れず、思い出しては頭を振って「あー、うー、」と赤面することが、せめてもの罪ほろぼしみたいにしているって、よくあることでしょうか。
体育の授業中、高校生活の小さな嘘